与える愛にたどりつけないまま、大人になる私たちへ
― 条件で選ぶ恋愛が、心をすれ違わせていく理由 ―
「どんな人に好かれるか」「どうすれば愛されるか」。
そうしたことばかりが、恋愛の中で重要視されるようになったのはいつからだろう──
SNSやマッチングアプリが普及した今、恋愛は「条件で選ぶもの」になりつつあります。
自分が「満たされるか」「損しないか」で判断しようとすると、
どうしても“誰かを愛する”より、“愛されること”ばかりに意識が向いてしまうのかもしれません。
でも、愛とは本来、そんなふうに選び取る「所有物」ではなかったはずです。
それは、関係のなかで少しずつ育ち、与え合い、支え合うものだったのではないでしょうか。
「どう愛されるか」ばかりに意識が向いてしまう現代

いつからでしょうか。
恋愛や人間関係において、「自分はどう見られているか」「どうすれば好かれるか」ということばかりに、意識が向くようになったのは。
SNSでの“いいね”の数、マッチングアプリのマッチ率、プロフィールに書かれた条件──
誰かに選ばれるための戦略はあふれているのに、
「自分は誰を愛したいか」「どんなふうに愛したいか」を考える機会は、意外と少ないままです。
私たちは気づかないうちに、
「愛されること=価値」だと思い込む社会のなかで、
自分を評価してくれる誰かを探し続けているのかもしれません。
でも本当は、
人に大切にされることよりも、
誰かを大切に思える自分でいられることの方が、ずっと深い喜びをくれるはずです。
それなのに、誰かの基準に合わせすぎたり、愛される自分を演じようとしたりしているうちに、
“誰かを愛する力”そのものが、少しずつ萎えてしまっている。
フロムが言うように、愛は感情ではなく「技術」であり「能動的な力」です。
けれど、「受け取ること」にばかり意識が向いていると、その力はなかなか育たないのです。
条件で選ぶ恋愛は、なぜ“深くつながる愛”を育てにくいのか

婚活という場に身を置くと、「条件で選ぶ」ということが、あたりまえのように求められます。
年収、学歴、職業、身長、家族構成。
プロフィールには、数値化された“情報”が整然と並び、
私たちはそこから「合いそうな人」「損をしなさそうな人」を無意識に選別してしまいます。
もちろん、それがいけないというわけではありません。
将来を見据えたときに、安定や価値観の一致を求めるのは、自然なことです。
でも──
条件は、“愛したい”という気持ちを支える土台にはなっても、代わりにはなりません。
条件に惹かれて始まった関係は、
もしその条件が変わったとき、簡単に不安定になります。
また、「自分は何を与えられるか」より「この人から何を得られるか」にばかり意識が向いてしまい、
与えることによって生まれる、あたたかな信頼や絆が育ちにくくなるのです。
スペックで選ぶ恋愛は、どこかで「評価する・される」関係になりがちです。
すると、心の深い部分──不安、欠点、弱さ──を見せ合うことが怖くなってしまいます。
愛とは、本来、
「完全な相手」を求めるものではなく、
「この人と一緒に未完成を抱えていこう」と思える関係です。
条件が悪くても愛せるということではありません。
ただ、条件の“外側”にあるその人自身を見つめられるかどうかで、
愛の質は、まったく違うものになるのだと思います。
「与える愛」にたどり着くには、心の土壌が必要

「与える愛こそが本当の愛だ」と聞くと、
それが“正しいあり方”のように思えて、少し背筋が伸びるかもしれません。
でも実際には、与えることはとても繊細で、
心が満たされていないと、すぐに見返りを求める形にすり替わってしまうものです。
たとえば──
優しさを差し出したのに、相手から反応が返ってこないとき。
「こんなに頑張っているのに」と、悲しくなった経験はないでしょうか。
それは、あなたの心が悪いわけではありません。
むしろ、人に何かを与えようとするあなたのやさしさが、本物だからこそ、傷つくのです。
だからこそ、「与える愛」にたどり着くためには、
まずは自分の心が静かに整っていること、自分という土壌が耕されていることが必要です。
・自分を受け入れていること
・小さな喜びを感じ取れる感性があること
・他人と比べすぎず、自分の歩みを信じていること
そういった“目に見えない土”が、愛を静かに育てていきます。
心が乾いているとき、人は愛を「奪うもの」として扱いがちです。
でも、内側にぬくもりがあるとき、人は自然と「与えること」ができるようになります。
フロムも語っています。
「与えることは、自己の豊かさを体験することだ。
それは犠牲ではなく、力の表れなのだ。」
無理をして“与えるふり”をする必要はありません。
まずは、自分の心の土を耕し、静かに温めていくこと。
そこから、本当の意味での「与える愛」は始まるのだと思います。

「愛する力」は、才能でも偶然でもなく、
日々の小さな心の使い方の積み重ねによって育まれていくものです。
その練習のひとつとして、私は愛少女ポリアンナの“よかった探し”を思い出します。
悲しいこと、つらいこと、思い通りにならないことがあっても、
その中にある“小さな光”を見つけようとするあの姿勢。
それは決して、無理にポジティブになろうとすることではありません。
現実をそのまま見つめたうえで、
**「それでも、何かを大切にしたい」**と、自分で選び取る視点です。
この“よかった探し”の感覚は、
愛する力と深くつながっています。
なぜなら、
人を愛するということは、
その人の「完璧さ」を見るのではなく、
未完成な部分の中に、よさや可能性を見つけていくことだからです。
「こんな部分もあるけど、それでもこの人といたい」
「今日も疲れていたけれど、それでも目を合わせてくれた」
そうやって、相手の中に小さな“よかった”を探し続けることは、
まさに“愛する”という行為そのものなのです。
そして同時に、
自分自身の中にも、“よかった”を見つけてあげること。
それは、自己否定ではなく、
自己肯定の静かな練習にもなります。
愛することは、外へ向かう行為のようでいて、
じつは内側を整える行為でもあります。
“よかった探し”は、世界との距離をやわらかくし、
あなたの愛する力を、静かに育ててくれるのです。
【まとめ】

スペックではなく、「この人を愛したいと思えるか」で選ぶということ
婚活や恋愛において、条件や相性、安定性を気にするのは、決して間違いではありません。
私たちは現実の中で生きていて、将来への不安や生活の基盤を考えることも、大切なことだからです。
けれど、
そのすべてを超えて、ふと心に残る感覚があるとしたら、
それは「この人を愛したい」と思える気持ちではないでしょうか。
誰かの完璧さに惹かれるのではなく、
その人の未完成さや、静かな部分に寄り添いたくなるような感覚。
与えることに、喜びや意味を感じられる関係。
見返りや損得を超えて、「あなたがいることが、うれしい」と思えるようなつながり。
それは、プロフィールには書かれていないし、数値でも測れない。
でも、確かに存在していて、深く、やさしく、人の心をあたためてくれるものです。
「どうすれば愛されるか」と悩んだときこそ、
「私は、誰を、どう愛したいのだろう」と問いなおしてみること。
その問いの中に、
あなたらしい愛し方が、静かに芽吹いているかもしれません。
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