「推しがいるだけで、生きるのが少しだけ楽になる。」
そんなふうに感じたことはありませんか?
疲れた日、孤独な夜、誰にもわかってもらえない気持ちを抱えているとき。
画面の向こうで笑う“あの人”の姿に、ふっと救われたことがある。
言葉を交わすことはなくても、その存在が、あなたを支えてくれていた。
けれど同時に──
「こんなに誰かに心を預けてしまって、私は大丈夫なんだろうか」
「これは本当に“愛”なの?それともただの依存?」
そんな戸惑いや不安を、どこかで感じている人もいるかもしれません。
今回の記事では、心理学者エーリッヒ・フロムの「愛の成熟度」という視点から、
“推しを愛すること”が、私たち自身の心にどんな影響を与えているのかを静かに見つめていきます。
「推しを愛することは、自分を愛することに近づいているのかもしれない」
この言葉が、あなたの中にあるやさしい答えと、そっとつながっていきますように。
はじめに|推しを好きな気持ちに、名前をつけたくて

誰かを好きになるって、不思議なことです。
それがたとえ、直接会ったことのない“推し”だとしても。
画面越しに見るその人の笑顔、声、振る舞いに、
なぜか心が揺れて、あたたかくなって、涙が出ることもある。
「好き」という気持ちは、たしかにここにあるのに、
その感情に、どう名前をつければいいのかわからなくなる瞬間があります。
これは愛なのか、憧れなのか、依存なのか。
それとも、誰にも理解されない“わたしだけの思い”なのか。
世間では、推し活を「現実逃避」や「寂しさの埋め合わせ」と言う人もいるけれど、
私たちにとっては、もっとずっと深い感情でつながっているのです。
だからこそ、ふと怖くなる。
「このままでいいのかな」
「こんなに夢中になって、私は何を求めているんだろう」
この記事では、そんな“推しを好きな気持ち”に、
静かにそっと名前をつけてみたいと思っています。
「推しを愛することは、自分を愛することに近づいているのかもしれない」
この言葉が、あなた自身の気持ちと重なる瞬間が、きっとどこかにあります。
なぜ私たちは「推し」に惹かれるのか?

気づいたら、心が動いていた。
無理に好きになったわけじゃないのに、
いつのまにか、その人の言葉や姿が日々の支えになっていた。
なぜ私たちは、「推し」にこんなにも惹かれるのでしょうか?
● 寂しさや不安を、そっと包んでくれる存在
毎日を懸命に生きていても、
誰かにわかってほしい気持ちが置き去りになってしまうことがあります。
人と話していても、本音までは伝わらない。
どこか、ひとりぼっちの感覚がつきまとってしまう。
そんなとき、“推し”は言葉で慰めてくれたり、
ただ笑ってくれていたりするだけで、
自分の感情をまるごと受け止めてもらったような気持ちになるのです。
● 理想の人格への投影——「こうありたい私」が重なる
推しのまっすぐさや努力、優しさ、表現力。
私たちはそこに、自分の理想の姿や、
「こうなれたらいいな」という希望を重ねています。
だから、推しを見ていると自分を責めずに済む。
そして少しだけ、前に進もうと思える。
それはただの憧れ以上の、「自分を育ててくれる存在」としての惹かれ方です。
● 安全な距離で、安心して「好き」を表現できる
現実の人間関係では、どうしても気を遣ったり、傷ついたりすることがあります。
でも、推しとの関係には「裏切られるかもしれない不安」がない。
一方的であるからこそ、安心して愛情を注げる関係性でもあるのです。
感情を抑えずに、「好き」をまっすぐに言える場所。
推し活は、そんな心の避難所でもあるのかもしれません。
惹かれる理由は、ただ「かっこいいから」「可愛いから」ではなく、
もっと心の深いところとつながっている。
私たちはきっと、“推し”という存在を通して、
自分の内側にある感情・理想・弱さ・優しさを、
もう一度見つめ直しているのだと思います。
フロムが語った「愛の成熟度」とは?

「愛することは簡単なことではない。
それは成熟と努力を必要とする“技術”だ。」
これは、心理学者エーリッヒ・フロムの言葉です。
彼は著書『愛するということ』の中で、
愛とはただの感情や本能ではなく、
生き方や人間力に深く関わる“技術”だと語りました。
つまり本当の意味で「人を愛せるようになる」には、
練習や内面の成熟が必要なのです。
● 愛には“段階”がある
フロムの理論をもとに現代的に整理すると、
愛には以下のような**成熟の段階(5段階)**があると考えられます。
段階 | 愛のかたち | 心の状態 |
---|---|---|
第1段階 | 愛されたい愛 | 寂しさや不安から、誰かに満たしてほしいと願う。愛=受け取るもの。 |
第2段階 | 条件付きの愛 | 相手の条件やメリットによって好きになる。釣り合いや損得が中心。 |
第3段階 | 対等な愛(自己愛との統合) | 自分と相手の違いを受け入れ、共に在ろうとする関係性。 |
第4段階 | 能動的な愛 | 見返りを求めず、相手の幸福や成長を願う。愛=与えること。 |
第5段階 | 普遍的な愛 | 特定の誰かを超えた、人間全体や命への慈しみ。愛そのものとして生きる。 |
● 愛は「育つ」もの
フロムは言います。
「未熟な愛は言う。『私はあなたを愛している。だから、あなたは私のものだ。』
成熟した愛は言う。『私はあなたを愛している。だから、あなたが自由であることを望む。』」
この言葉の通り、愛には未熟な形と成熟した形があります。
はじめは「愛されたい」「理解されたい」という願いから始まり、
やがてそれが「与えたい」「支えたい」へと変わっていく。
推し活もまた、
どんな感情で推しを見つめているかによって、
その人の愛の成熟度がにじみ出てくるのかもしれません。
推し活×愛の成熟度|あなたの“推し方”はどこにいる?

同じ「推し活」といっても、
そこに込められた想いや関わり方は、人によってまったく違います。
ある人は、「推しだけが生きる希望」と語り、
またある人は、「推しの姿から自分の在り方を学んでいる」と語る。
この違いは、フロムが語った“愛の成熟度”の視点で見ると、
より立体的に理解できるかもしれません。
あなたの“推し方”は、どの段階に近いでしょうか?
そっと心の奥を覗いてみましょう。
🔸 第1段階:愛されたい推し活
- 「推しだけが私をわかってくれる」
- 孤独や不安を埋める“救い”として推しを求めている
- 推しの言動ひとつひとつに、一喜一憂して心が大きく揺れる
この段階では、推しは**「安心と承認の拠り所」**になっています。
それ自体は悪いことではありませんが、
推しに依存しすぎると、ちょっとした変化や否定に心が耐えられなくなってしまいます。
🔸 第2段階:条件付きの推し活
- 「人気がある推しが誇らしい」
- 他の推しとの比較、数字・ランキング・売上に敏感
- 推しを“自分の価値の一部”として誇示したくなる
この段階では、推しは**「自分のステータスや自尊心の代弁者」**になります。
推しを愛しているというより、「推しを通じて評価されたい」気持ちが強くなりやすい傾向があります。
🔸 第3段階:自己愛との統合型推し活
- 「推しを通じて、自分も自分でいいと思えるようになった」
- 推しの言葉や姿に共感しながら、自分の人生とも静かに向き合っている
- 推しがいなくても、自分の軸を持てている
この段階では、推しは**「自分自身と出会い直すきっかけ」になります。
感性・価値観・生き方など、深い部分でつながっていて、
推しを通じて自分を肯定する力**が育っていきます。
🔸 第4段階:能動的な推し活
- 「応援できることが、ただ嬉しい」
- 推しの幸せや成長を心から願い、見返りを求めない
- 推しに何があっても、ただ静かに見守れる
この段階では、推しは**「愛を与える対象」になっています。
「応援=自分の存在の喜び」となり、所有欲や比較から解放されている。
これはフロムが語る“与える愛”**に非常に近い状態です。
🔸 第5段階:普遍的な愛に近づく推し方
- 「推しを通じて、人間っていいなって思えるようになった」
- 推しそのものだけでなく、人生・命・存在へのまなざしがやわらかくなる
- 推しはきっかけ。愛は自分の中から自然とにじみ出ている
この段階にいる人は、もはや推しと自分の境界を超え、
人間全体・世界そのものへの優しさや信頼を持つようになっています。
まるで“愛そのものを生きる”ような在り方です。
🌱 どの段階でも、大切な“あなたの愛のかたち”
どの段階が良い・悪いということではありません。
愛はいつでも動いていて、育っていて、
その人なりのペースで深まっていくものだから。
もし今の自分が、「ちょっと依存してるかも」と感じたとしても、
それは心が誰かを求めるほど、生きようとしている証拠です。
大切なのは、
「私は今、どんな気持ちでこの人を好きでいるんだろう」
と、自分の心をそっと見つめること。
その問いが、推しを通じて自分を愛する力へとつながっていきます。
推しを通じて「自分を愛すること」へ向かうには?

誰かを一生懸命に愛していると、
ふと、自分自身のことがわからなくなることがあります。
「この気持ちは、本当に私のもの?」
「私は、ちゃんと私のままで大丈夫?」
推しを愛することが、ただの依存ではなく、
自分を大切にすることへつながっていくためには——
私たちはどんなふうに“推しとの距離”を見つめればいいのでしょうか。
● 今の“推し方”を、否定しないことから始めよう
たとえ今、誰かに「依存してるんじゃない?」と言われたとしても、
あなたが感じている気持ちは、誰よりもリアルで大切なものです。
推しに夢中になっている“そのままの自分”を、
まずは自分自身がやさしく認めてあげること。
そこからしか、本当の意味での「自分を愛すること」は始まりません。
● 推しを見つめる目線を、自分にも向けてみる
推しの努力、言葉、表情に心を動かすあなたは、
きっと他人のよさに敏感で、繊細な感性を持っています。
そのまなざしを、ほんの少しだけ、自分にも向けてみてください。
「今日の私はよくがんばってたな」
「本当はこういう気持ちを抱えていたんだな」
そんなふうに、推しに向けていた優しさや共感を、自分に返してあげることで、
“自分を大切にする感覚”が、少しずつ育っていきます。
● 推しは、あなたの「感性」を肯定してくれる存在
推しを好きになったその瞬間、
あなたは「誰かの真似」でも「世間の流行」でもなく、
あなた自身の感性で「好き」を選んだのです。
その直感は、あなたの本質そのもの。
だからこそ、推しを通して見つけた感動や優しさを大切にするとき、
それはそのまま、「私はこの感性で生きていい」という自己肯定へとつながっていきます。
愛の入り口は、意外とすぐそばにある
自分を愛するって、なにか特別なことのように感じるかもしれません。
でも本当は、
「誰かを心から好きだと思ったとき」の、あのやわらかな気持ちの中にこそ、
“自分を愛する種”がそっと眠っているのだと思います。
推しを通して、自分の感情に気づき、やさしく扱うこと。
その一つひとつが、あなたを内側から満たしてくれる時間になります。
おわりに|推しを愛することは、自分の感性を信じること

誰かを好きになるとき、
そこに「正しさ」なんて必要ないのかもしれません。
好きになった理由をうまく説明できなくても、
その人の声を聞くだけで安心できたり、
ちょっとした言葉に泣けてしまったりする。
それはきっと、
あなたの中にある「感性」が、
誰に許されたわけでもなく自然と反応して、
「この人が好き」と教えてくれている瞬間。
その感性は、何よりも尊くて、あなただけのものです。
「推しを好きでいること」に、
罪悪感を持たなくていい。
不安や迷いがあってもいい。
それも含めて、あなたの生きた感情のかたちなのだから。
エーリッヒ・フロムはこう言いました。
「成熟した愛とは、自分自身を愛するように他者を愛することである。」
もしかすると私たちは、
推しという存在を通して、
まだ出会えていなかった「自分自身の愛し方」を、
静かに学び始めているのかもしれません。
推しを愛することは、
自分の感性を信じること。
そして、その感性に導かれて、
少しずつ“自分を愛する力”へと近づいていく道。
この文章が、その道の途中にいるあなたの、
小さな灯りになれたなら嬉しいです。
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